鬱な私の日日日記

鬱病から躁鬱。三度の結婚。ほんとの幸せって何だろう。前夫との関わり、複雑な関係性の中で生きてます。一人で外出できない鬱病の私の日常をつらつらと綴りたいと思います。

ほうれんそう

最近、ぼやくことが多くなっているなと自分でも思うのですが、またひとつボヤキを書いてしまいます。

 

母は現在、歯科医院にも通院しています。

 

つい先日朝一番の予約だった為、母は早起きが苦手ながらも頑張って早起きして準備してヘルパーさんを待っていました。

いざ歯科医院に行くと「予約時間は12時ですよ。」と言われたそうです。

 

ところが当日は耳鼻咽喉科の予約も12時となっていたので歯科医院の方は諦めて耳鼻咽喉科だけを受診したのだそうです。

 

 

母には申し訳ないのですが、一方的に母だけの話を聞くわけにはいきませんからケアマネさんに電話をして聞いてみると

ヘルパーさんの勘違いによる間違いでした。

 

次回の歯科受診日も連絡がないまま、こちらからケアマネさんに問い合わせたら“明日です”とのことだったので、母に伝えて再度当日にも「今日が歯医者さん行く日だからね。」と電話を入れました。

 

母は前もって知らされたことを忘れてしまうので、大切な対応です。

 

それでも理解したあとはそのことだけが記憶に残り、そればかりを気にするので大変と言えば大変です。

 

母は当日、準備してヘルパーさんを待っていました。

ところが待てどもヘルパーさんは来ないので

こちらからケアマネさんに連絡すると「歯医者さんは明日になりました。」との返事です。

 

前にも「介護認定に関わる調査の日取りが決まり次第連絡します。」と言いながら連絡がこないので、こちらから聞いたら「○月○日です。」と、もう明日明後日に迫る日にちです。

 

確かにその施設で介護して頂いているのは母だけではありません。

ケアマネさん、ヘルパーさんは何人とも関わっておられるのでしょう。

 

私には想像すらできない大変さがあるのだと思います。

 

私たち夫婦は離れて暮らしているので、私たちが関われない部分を担って頂いている感謝はしていますが、お願いしている連絡は欲しいです。

 

いつも大切な連絡もこちらから電話をすると「今電話しようと思っていたところなんです。」とおっしゃいます。

 

 

「今、出先なので戻ったら連絡します。」と言ってかかってきたことはありません。

 

時にイライラして待ちます。

 

電話がないだろうと思って、最近では催促だと思われてもいいのでこちらから連絡するようにしています。



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ビジネス社会で広められていると言う

“ほうれんそう”

ほう=報告

れん=連絡

そう=相談

 

は、どんな場面においても大事な ものではないかと思います。

 

家族間でも“ほうれんそう”を大切に行いたいと思います。

 

 
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家族が認知症になったなら

私の母が診断により認知症だとわかったのは約一年前です。

 

それだとわかる前は、認知症と言う言葉は社会的にも注目されていましたが私には“自分の回り”で起きるとは微塵も考えておらず、母は気が狂ったのだと思うしかありませんでした。

 

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でも実際に母が罹患してしまったのだから、受け入れていくしかありません。

 

それからはネットで調べたり、専門医の話を読んだり聞いたりと私なりに理解しようとしました。

 

理論的にはわかっても、いざ本人に対応するとなると難しいものです。

 

最低限これだけはしないようにと心にとめて接するのがやっとです。

 

時に考えてもいなかった質問にあたふたすることもあります。

 

先日デイサービスから帰ってきたときに「他のメンバーは楽しいから笑ってるけど、その時の私は楽しくなかったから笑わなかった。笑わないとダメ?」と。

 

一瞬「えっ?」

 

結局「楽しくないのに無理に笑わなくていいよ。楽しいと思ったら自然に笑顔は出るものだからそれでいいよ。」と言いました。

 

 

母は「良かった。私だけが笑ってなかったから無理にでも笑わないとダメだと思ってしんどくなってん。」と言ってました。

 

 

受診の時には毎回医師に対応の仕方を聞いてしまいます。

自分が良くない対応をすることで母を苦痛にさせるのは嫌だからです。

 

 

 

ある医学博士の話によると、

認知症と診断されたあとの家族から「本人とはどのように接すればよいでしょうか」と言う質問を多く受けるそうです。

 

その医師は「普通の人と同じように接して下さい」と答えるそうです。

 

本人は家族から何もできないような扱いを受けるとプライドが傷つき落ち込んで症状が悪化しかねないからです。

 

☆失敗しても責めたり叱らない

☆よかれと思って諭したりするのもしないように。

 

これは、失敗したことを忘れて、注意された叱られた嫌なことだけが心に残るからなのだそうです。

 

認知症の人は記憶をなくすことに大きな傷を不安、悲しみを感じていることを理解して環境を整えることが大事だそうです。

 

 

母は昔から活動的で料理も何でもできる人でした。

 

ですから、認知症になってもせめてこれくらいはとキッチンに入ってこようとするのですが、パーキンソン病も発症していて手元足元も危なっかしいので、ついつい長男は「向こうで座っとき」と言ってしまうそうです。

 

こちらは危ないからさせない、本人はさせてもらえないと落ち込む. . 

 

負の循環です。

 

 

最初は悲しそうな顔をして「申し訳ない申し訳ない」と泣いていた母も、私が「長年一生懸命やってきたのだからそろそろ任せてもいいと思うよ。」と言うとホッとしたように「じゃあ、そうさせてもらおうかな。ありがとう。」と言います。

 

 

 

と言って、全てを取り上げてしまうと行動とコミュニケーションの範囲が狭くなって脳への刺激が減り、できないことが増えてしまいます。

 

家事などはまったくできなくなっているので、リハビリと言うことで今は5才児程度のドリルをするようにしています。

一枚一枚日付と名前を書くように促しています。

 

けっこう楽しそうにしています。

 

簡単な塗り絵もしています。

 

お手本と違った色のイメージだと困ったなぁと言う顔をするので一つ一つ褒めると

これでいいのかと納得します。

 

今まで気にならなかった小さなことまでもが気になり不安になるのでしょう。

 

 

常に優しい言葉で安心を与え、話を真剣に聞き、一人の人間として尊重し恥をかかせない、失敗を責めたり説得や指導をしない。

 

 

認知症は治らない病の一つだとは思いますが

教わったポイントを私たちがしっかりと頭に入れて応用しながら対応し、専門医の適切な治療とケアを受けていけば

今のように自宅で少しでも長く生活していけるのではないかと思います。

 


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熱中してたのにパッタリやめてしまった

5年前から3年間程マスキングテープ等を使ってコラージュにハマってました。

 

シール、レースペーパー、ボタン、チャーム、リボン等々、高価でなく集められるものをまず用意して朝から晩まで何かしらを作っていました。

 

人から見ればガラクタと思われるものも自分にとっては大切な思い出とスクラップブックにもしたり。

 

 

味気ないペーパーバッグを花のコサージュつけてみたり

ノートの表紙にレースペーパーを紅茶染めしてあしらったり、カレンダーもお気に入りスタンプで手作りしていました。

 

便箋封筒も手作りしていました。

 

お友達のお誕生日に送るバースデーカードも手作りです。


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 マスキングテープが好きすぎて自分の机の前に飾ってしまう程で、どれだけの数を集めたでしょうか。

 

 それが、今では収納ボックスの中に閉じこもったままです。

 

私が閉じ込めてしまったのです。

 

心療内科の先生も「どんどん楽しいこと見つけてやってくださいね。」と応援してくださっていたのに、ピタッとやめてしまいました。

 

あれほど夢中になってたのに. .。

 

今ではプレゼントを送るお友達もいません。 

 

では、主人や子どもたちにでも作れば?と思うのですが、以前は作っていました。

 

もう今はその気力がありません。

イデアも浮かびません。

 

時々引き出しを開けてはため息です。

と言って断捨離する勇気もありません。

 

きっと当時は嵐の真っ只中と言う生活環境だったので、何かをしていないと不安だったから没頭していたのかもしれません。

 

今は母のことや前夫のことは火だねとして残っているけれど、主人のそばで穏やかな日々を送れているのと、その時の反動がそうさせているのだと思うようにしています。

 

 

いつかまた、その日の為に、集めたマスキングテープや小物たちを大事にしまっておきます。

 


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精神年齢

私は○○診断とか○○チェックと言うのが好きで、無料だとついついやってしまいます。

 

 

最近では精神年齢チェックをいくつくかしました。 

 

一つは82才、これ以上精神年齢を上げると仙人になるかも?ぼけ防止に小学生用ドリルをやればいいかも?

 

二つ目は28才、新しい趣味を探してみれば?

 

三つ目は22才、もっと様々な経験を積むことが推奨される。

 

他、色でのチェックでは34才。でした。

 

 

精神年齢を調べてみると、知能年齢とも言う。ビネの考案による。各年齢段階に応じて困難度の異なる標準化された問題で、個人がどの程度の年齢段階の問題までを解くことができたかによって測定された知能の程度。とありました。

 

何だか難しいことが書かれていますがチェック項目は、そういったものではありませんでした。

 

結果もバラバラです。(笑)

 

 そうしていると“あなたは年齢にふさわしい行いをしていますか?”チェックを見つけました。

 

もちろんやってみました。実年齢53才ですが

結果は44才。

 

でも、“ふさわしい”って何でしょうか?

 

それがこれに釣り合って適している状態。

 

こんな簡単なチェックだけで自分がわかるはずもありません。

 

 

私にはPTAで知り合った8才年下の女性のお友達がいました。すごく私を慕ってくれていてとても仲良くなれました。

 

当時彼女は私以上に引きこもりで他にお友達もなく、僻みの言葉をけっこう出していました。

 

そんなこと私には何てことなかったはずなのに、毎日送られてくる自虐的なメールに耐えられず、現在はご縁が切れてしまいました。

 

8才年上であっても私には彼女を受け入れる器がなかったのだと思います。 

 

年上だから、年下だからと言うのは関係ないと思いました。

もちろん経験値の違いで結果違うこともあるでしょうけど。

 

そんなこともあって時に突き詰めたくなりますが、自分で自分の精神年齢やふさわしい年齢なのかどうかなどを知ろうとすることは、やはり占い感覚の遊び程度にしておきます。

 

でないと悩んでしまいます。 

 


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文通

私が中学生の頃だから約40年前でしょうか。

 

当時私は部活でバレーボールをしていて、テレビでも男子女子問わず試合を見ていました。

 

全日本で好きな選手もいましたので。

(その時には想像すらできませんでしたが、(私は中学生でしたので(笑))

先でその選手のお嬢さんと私の娘がお友達になると言うご縁を頂きました。知ったときには若い頃を思い出し興奮しました!) 

 

 

毎月発刊される“バレーボールマガジン”や“月間バレーボール”も読んでいました。

 

そこには「文通募集」のコーナーもあって、自分の住所と氏名と簡単なメッセージを載せて文通相手を募るのです。

 

私も出したことがあって、紙面に私の名前を見つけたときには大変嬉しかったのを記憶しています。

 

たくさんのバレーボールファンの方から手紙を頂きました。

 

全ての方とやり取りするわけにはいきませんから、年齢が近く、同じチームを応援する2~3人の方と始めたと思います。

 

私の実家と有名チームの本拠地が近いことから、羨ましがられたこともあります。

 

手紙を書くとき、手紙が届くのを待つときのワクワク感は忘れられません。

 
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しかし、当時の私の周りの環境が私にとってはかなりのダメージで文通を続けることもできなくなりました。

 

 過去記事↓↓↓

 

 

心に余裕がなくなってしまいました。

 

今では個人情報やプライバシーの問題から文通も難しくなってきているのでしょうね。

 

ただ、会費を払えば個人情報も出さず、ニックネームで文通ができるというシステムもあるようです。

 

 

引きこもりになってから、人との関わりが面倒で、そこまではしたくないなと思っていましたが、こうしてブログと言う形で自分のいろいろなことを書けることで、文通とはまた違った楽しみが増えました。

 

 

大げさですが、失われつつある文化も便利なシステムで継続できたり新しい形での関わり方も増えたり便利な中で、各々責任を持って楽しめたらいいなと思っています。

  

 


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子育て 四訓

毎週末から3日ほど、長男がうちへ泊まりにきます。

 

祖母にあたる私の母と、父親である私の前夫と弟の四人で暮らしています。

 

前夫は経済的なこと以外は母に対して無視です。 

 

長男は認知症の母を理解し、前夫が泊まり出勤で家にいない時などの食事や母の薬の管理など、昔の確執を越え、大学に通いながら(一年留年しました。)家のことを行ってくれています。

 

 

いくら病とは言え、否、病だからこそ

祖母とベッタリ1週間一緒に過ごすことに疲れもあり、少し息抜きと言うことでうちへ来る習慣ができました。

 

長男がいないときの母のフォローはショートステイやデイサービス、ヘルパーさん、宅配等、可能なサービスを利用しています。

 

あの家に住むためには避けられないことではありますが大変なのは本人にしかわからないと思います。

 

次男は長男の手伝いをすると言う感覚です。

悪気もなく気づくことができないでいます。

 

そのことで話し合いをしたこともあり、現在では少しではありますが以前より意識は高まったかなと思っています。

 

長男を送って行ったとき(うちから車で40~50分程かかります。)

母と主人と私の3人で話しているときに、次男が耳かきを手に「お母さん、耳掃除してぇー」と部屋に入ってきました。

 

大学四回生の次男

「幼稚園生かぁ?」と笑いながら答えると末っ子特有の甘え上手で膝の上に頭を乗せてきました。

 

その時にふと、長男、次男が通っていた中学校の校長(現夫)が学校通信を配布してくれたプリントの内容を思い出しました。

 

※(息子たちの校長だった人が今の夫だと言う事など、関係性については過去記事読んで頂ければありがたいです。)

 

子育て四訓

〇乳児はしっかり   肌を離すな

〇幼児は肌を離せ   手を離すな 

〇少年は手を離せ   目を離すな

〇青年は目を離せ   心を離すな

これは山口県の教育者の方がまとめたものだと聞いています。 

 

 

私は私のできる限りの子育てをしてきたつもりでいました。

しかし、前夫の執拗な嫌がらせに精神的にボロボロになり、家を出ることになりました。

 

娘が大学生、息子たちが高校生の時です。

 

 

まだまだ親が必要な時期です。

 

経済的には前夫がいましたので困ることはなかったのですが、メンタルな部分では大きな傷を負わせたと思っています。

 

今は娘も自立し、息子たちも就活中で自立に向かって努力しているところです。 

 

私が鬱病と言うこともあり、逆に子どもたちに心配をかけています。

 

先日も大腸にちょっとした問題があり、検査した時も三人ともが必死になって心配し、励まし支えてくれました。異常なし!とわかったときには、どれほど喜んでくれたでしょう。

 

主人は「○○(私)が存在するだけで彼らの支えになっている」と言ってくれます。

 

「こんな私が?」とネガティブに向きますが、子どもたちが自立してそれぞれの道を歩んでいくようになっても、年をとって親の立場になっても、私は私の命が終わるまで心を離さず 見守って行きたいと思います。

 

 

 


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水、買います派から買わない派へ

毎日、暑い日が続いています。

 

梅雨明けもそろそろでしょうか。夏本番ですね。

 

水分補給をしっかりしないと!です。

 

私たちが生きていく上で“水”は欠かせません。

 

私は以前、飲料水としてミネラルウォーターをまとめ買いしていました。

 

 

水道水を飲み水として使用しないのは“不味い”“ニオイがする” ということに抵抗があったからです。

 

 

現在のところに引っ越してきてからは、近くのスーパー規定のボトルを買えばピュアウォーターをもらえるので購入して、買い物ついでに水をもらっていました。

 

ところが1日に一度で一本(確か3.8㍑だったと思います。)の制限がある為、その量ではとてもとても追いつきません。

 

 

そこで、浄水器を考えたのですが、賃貸マンションですし、工事を必要とした場合は諦めなければなりませんし頭を捻っていました。

 

 

私が住んでいる市の水は、そのまま飲んでも安心で美味しいそうです。

 

実際に市販のミネラルウォーターと市の水道水を目隠しして飲んでも、ほとんどの人が違いがわからなかったそうです。

 

でも、マンション等の場合本管から引き込む部分は私有地なので水道管や貯水槽が古いままの場合が多く、それが起因してまずくなるとか。

 

そこで娘がBRITAの浄水ポットを教えてくれました。

 

 
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2㍑用ポットとカートリッジ3個セットで4545円とお手頃価格です。

 

カートリッジは使用状況で変わりますが、約2ヶ月に一度の交換が平均だそうです。

液晶インジケータが交換時期を知らせてくれます。

 

 

ニオイや味に影響する物質を取り除いてくれるなら、このポットで十分です。

 

 これで買い物が無いときに水だけを取りに行く手間も省けて大助かりです。

 

 

水を注ぐだけで数分でまったりとした美味しい水に変身。

 

お薦めです。

 

 

 

  


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医師の全てが“先生”じゃない気がする

母は昔から耳が聞こえにくく、左耳には補聴器を入れています。

右耳も悪く、この補聴器を外すとほとんど聞こえない状態です。

 

ここ最近になって母の右耳から出血する頻度が多いので耳鼻科に連れていきました。

 

慢性の中耳炎による“耳茸”と言う肉芽が原因と言うことでした。

 


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担当医は母が認知症だと言うことも、心臓が悪く、血液が凝固しないようにサラサラにする薬を服用していることもご存知です。

 

主人が「治療はどのようなものですか?」と質問すると

 

 

「心臓の薬飲んでるから、このままだと頻繁に出血はするでしょうねぇ。大出血の可能性があります。このまま一生、だましだまし治療に来るか、手術をして根本的に治すか。どちらかですねぇ。まぁ手術しても再発がないわけでもありません。どうします?」との返答でした。

 

選択するのは患者側であることはわかります。

 

 しかし、認知症の母はちょっとした言葉がきっかけで大きな不安を持ちます。

 一つの言葉にいつまでもこだわり続けます。

 

母は「手術怖いです。」と言いました。

 

すると「放って置く方がもっと怖いと思うよ。」との返答。

 

結局その医師は手術をした方が良いとの見解です。

 

確かに1日に多数の患者を相手に豊富な知識をフル稼働させて、患者の為に良い治療を。と思ってくれているのでしょうし、きちんとした専門家なのでしょう。

 

 

それから毎日、母は耳のことにばかりに気がいって、私との会話で必ず「怖い怖い」と言います。

 

精神科の医師にも相談し対応していますが母にとって恐怖となった言葉は母からは離れません。

 

 

医師も人間ですから一から十までを正しく導けとは思いません。

 

が、

 

専門的な医学、患った“部位”だけでなく、患者が他に抱えている病に対して、もう少し配慮をしてほしかったなと思ったのでした。

 

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ペットは“もの”じゃない

前回は私自身の終活について書いてみましたが、今日はペットについて書きたいと思います。

 今やペットは犬、猫だけでなく、ハムスターやウサギ、亀、熱帯魚等々様々なものがありますね。好みもそれぞれです。

 

昔と違って飼う、飼われると言うスタイルから、一緒に過ごすと言うような感じがします。

 

 

私は現在、主人と二人暮らしで賃貸マンションに住んでいるため、ペットは飼えません。

 

私が家を出る前に住んでいた家では中型犬を一匹と猫四匹を飼っています。

 

 

(現在は母、前夫、息子たち二人が住んでいます。)

 

(土地は私の母の名義、建物は私名義なので私の実家とも言えるのでしょうか) 

 

 

犬は雑種で前の飼い主さんがアレルギーで飼えなくなり、動物病院を通してうちで飼うことになりました。

子どもたちがまだ小学生の頃です。

 

 

私は過去に飼っていた犬を事故で亡くした悲しい出来事を経験しているので大反対しましたが、三人の子どもたちは飼う気満々で、私が折れる形で飼い始めました。

 

約束は“絶対に自分達で責任を持って飼うこと!”

病院に連れていく等、子どもにはできないことは前夫と私が行いましたが、日々の散歩や食事の世話など全て約束通り三人の子どもたちでやっていました。

 

情が移ったらダメだと、構わないようにしていましたが、やはり可愛さが増していきます。困ったものです。

ペットと言うより家族と言った位置付けです。

 

人より長くは生きられないことがほとんどで、飼うと同時に最後を看取ってあげることも考えておかなければなりませんでした。

 

 

私と娘が家を出てから現在までも特に長男が世話をし可愛がっています。

 

その犬も15、6才で人間だと80才前後でしょうか。

息子から聞くところによると、もう目はほとんど見えていないようです。

 


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母との関わりから私たち夫婦は家に行く機会が多いのですが、今でも私に寄ってきます。

昔教えた“お手”“おかわり”もします。

 

胸がジワっとします。

 

昨日、前夫から

「○○ちゃん(犬の名前)が
ご飯を食べる時も踏ん張れずに足を滑らしてます。
ご飯を3割位食べた後酔っぱらいみたいに千鳥足で歩いたかと思うと倒れこむように横になり、寝たままオシッコしました。」とメールがきました。

 

長男がうちへ泊まりに来ていたので、すぐに伝えました。

 

長男も色々と考えていたようで、このメールをきっかけに語り合いました。

 

息子たちはペット葬を考えてると言います。

返骨もしてほしいと。

 

 

自治体で引き取ってもらうことも可能だけど、有料ゴミとして扱われ、一般ゴミと一緒に焼却の可能性もあるらしいです。

 

 

「別れはつらい。でも、最後に何かしてあげられることはないか。

 

いつか来る日の為に準備し、死を受け入れ

ありがとうと言う感謝の気持ちで見送ってあげたい。」

 

息子たちの気持ちを第一に、そして犬のことも考え、私は私のできる範囲のことをしてあげたいと思っています。

 

猫については、またいつか書きたいと思います。 

 

 

 

 


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現在、終活中

私は生活必需品等、予備に置いておかないと、すごく不安なので常にストックしています。

 

なので、「あっ! ○○が切れて困った」と言うことがありません。

 

使用済みを確認したら、すぐに買い物リストとしてメモにします。

 

メモ魔なのです。

私が座るテーブル上には常にメモが数枚置かれています。

 

メモをするのは決して物品だけではありません。

次に何をしなければならないかの予定もメモします。

 

スケジュール手帳も活用しています。

まず、わかっている予定を書き込みます。

そして、その日に何があったかを記録しています。

人間の記憶は日が経つにつれ、曖昧になってくるので、しっかりと事実を記録しておきます。日記とは区別をつけて使用しています。

 


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そうすることで、自分の中で安心が生まれます。病的に思えるかも知れませんが、これで私は楽なのです。

 

以前、前夫に対して送った手紙も記録を元に作成でき助かりました。

 

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また、一年に一度、その手帳を選ぶ楽しみもありますし。

 

テレビドラマじゃないですが、アリバイを聞かれても、すぐに答えられそうです(笑)

 

デジタルな世の中でアナログ寄りの人間です。

アプリなどのID、パスワードも小さなノートに全て書き込んでいます。

 

安全性を考えたら、何てこと?なのかもしれないけど、例えば家族に解約してもらうときに、スマホを開くパスワードもわからないってなると困るかなと思ってしまいます。

 

遺産相続対象になるもの等(家しかないですが. . )をどうするかとか

生命保険の受け取りとか

 

どこに何をしまっているとか、どう処分してほしいとか。

 

今は思い付いたものを書いていってます。

 

性格なんでしょうね。

 

まだ、お墓の用意や何葬にしてほしい等は書いていません。

 

とにかくお金がかかることや時間的に負担をかけてしまうことは避けたいと思っているので、今、注目されてる「小さなお葬式」

何なら「火葬」だけでもいいくらいだと思っています。

 

 「死」について考えることは“縁起が悪い”ことではないと思っています。

 

必ず誰かに頼らなければならない終末なのですから“知らぬ顔”ではいたくないです。

 

 

娘なんかは「何とかするから大丈夫」

息子たちは笑って聞いているだけです。

 

この明るさが、今の子どもたちからのメッセージだと受け取って、鬱病と向き合いながらも、まだまだ元気でいようと思います。

 

 

 

 


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